平成24年 創立記念朝礼



平成24年8月6日午前8時より 厚生棟2階大会議室にて

創立記念朝礼
---創業以前の社会と我が家の生活---




皆さんお早うございます。私達の会社はこの8月で、創業以来52年が経ちました
今日はどんな話をしようかと考えたのですが、創業記念というワクがあるので、
そのワクからハミ出ない形で、話しをしなければなりません。

私は今日まで終始一貫、ブレない人間として通っています。
早く云えば頑固者なのかも知れません。自分自身はそう思っていないのですが、
最近20年来お付き合いさせて頂いている伍洒会の皆さんにも、そのように云われます。

したがって今日は、
いつもと少しは違った角度からお話しをしてみたいと思いますがどうでしょう。
ともかくどんな話しになるか聞いて下さい。


不易流行」という言葉があることは皆さん知っているでしょうか。

不易とは変えてはならないもの、
流行とは時代と共に変わって行かなければならないもの、と私は理解しています。
いかに頑固者でも、何もかも変えずに今日まで52年間、
事業の継続はできないと思います。

かといって変えてはならないものまで変えてしまったら、
そこからが終わりの始まりです。すぐにはダメにならなくても、
近い将来、たとえば数年の内に廃業、又は倒産の憂き目を見ることになるでしょう。

ここでいう変えてはならないものとは何でしょう。

今さら云うまでもないことですが、それは経営方針であり、経営理念です。
そしてそれに基づく「ものづくり」、製造業としての技術指向の考え方です。

解かり易く云えば、
ウチはプレス屋で一工程ずつ手作業で行なう単発作業もありますし、
又それでなくては出来ないものとか、
取り敢えず合理的判断のもとでの単発作業もたくさんあります。
昔は単発作業が中心でした。

だからと云って頑固一徹、すべて単発作業で仕事をしていたらどうでしょう。
答えは火を見るより明らかです。今日という日はありません。
とうの昔に倒産、廃業です。

今のやり方で良いのか悪いのか常に考え、
精進してゆく「ものづくり」こそ大事なのです。
そうして技術の進歩発展があり、難しい仕事をやりとげた喜びがあるのです。

変えなければならないものは断固として変える。それが仕事です。
このことが理解できない人、又は反対の人がいたら、
今すぐに会社を去ってもらいたいと思います。
そんな人は他の会社でも相手にされないと思いますし、
大体そんな人は一人もいないと確信しています。

今日あるのは、そうした考えを理解する、お客様始め多くの取引先様、
関係する人すべての皆様のお陰であり、社員の皆さんの協力があってこそ今日、
52周年を迎えることができたのです。そのことに深く感謝いたします。
これからもどうかよろしくお願い致します。


さて世の中も少しずつ変わって行きます。今年になって変わったことは、
民主党政権になって4年の間は、絶対に消費税は上げないという選挙公約に反して、
3年で「社会保障と税の一体改革」とのスローガンで、
現在5%の消費税を10%にすると云うのです。ゴタゴタしながらも、
自民党も仲間にして、消費税の値上げ法案を衆議院で可決、決定しました。

何しろ予算の半分以下の税収入しかないのですから、税金を上げて税収を増やし、
増え続ける社会保障費に歯止めをかけなれけば、どうにもならない所まできています。消費税が5%から10%になっても、税収は約10兆円増えますが、実は焼け石に水なのです。

今までのやり方を根本から変えなくては、国家破綻します。
会社で云えば倒産です。だから「社会保障と税の一体改革」なのです。

それはわかりますが、具体的にどのような改革をするのか、しないのか、全く見えてこない中で税金を上げることだけが先行しています。背に腹は変えられないのかも知れませんが、泥棒をつかまえてから縄をなうように見えてなりません。

私は4月に所用もあって、東日本大震災から1年後の東北地方、
釜石から気仙沼まで、海岸線を走る国道45号線を車で通って見てきました。

幹線道路は片付けられて走ることができますが、支線は通行止めになっている所も沢山ありました。風景は一変し、海岸の町は跡形もありません。
そこには集められた瓦礫の山があちこちに見えるだけ。
黄色や青のユンボがいまだに作業をしています。

大船渡の町を過ぎると、陸前高田の一本松が見えてきました。
お昼を過ぎ、食堂を探しましたが一軒もありません。
小さな町の食堂はみんな津波に流されてしまったのです。

しばらくすると道は小高い丘にさしかかりました。
丘の上に小さな食事処がありました。午後の1時を廻っているのに、
広い駐車場には車がいっぱいで、止める処もありません。
仕方がないので気仙沼まで走りました。

さすがに気仙沼は大きな町なので津波のこない高台もあり、そこで食事をとりました。店を出た時は午後の3時過ぎでした。震災から1年以上になるのに、国は何をしているんでしょう。

更には福島の原発事故の原因さえまだ究明されない中で、すべての原発が止まりました。しかし安全が確認されたという事で、全原発停止から2ヵ月にして、
関西電力大飯原子力発電所が7月に入り再稼働しました。
3号機に続いて4号機も再稼働しました。
安全より、夏場を控えての電力不足対策を優先したように見えます。

私にはどうも合点がゆきません。
少なくともここは歯を食いしばっても節電で乗り切って、新しく発足した、
原子力規制委員会の安全確認を待って再稼働するのが筋だと思います。
原子力保安委員会はもう信用する人はいません。

批判ばかりしていても始まりません。
私達が選挙で選んだ人たちが物事を決めて行く訳ですから、
次の選挙で信頼できる政党、信頼できる政治家を選ぶしかありません。


政治の話しはこのくらいにして、折角の創業記念朝礼ですので、
今日は「創業以前の社会と我が家の生活」というテーマでお話しをさせていただきます。

個人的な話しも大分入ってきますが、時代背景の中で、
人々の暮らしがどんな風であったか、そして私の家では、これは私が幼い頃から、
自分の目で見たり、体験に基づいて感じた事ですので聞いて下さい。


私の父方の曽祖父は、南部藩といって、今の青森県、岩手県、秋田県に
またがる大きな藩の武士でした。今の岩手県の盛岡にいたのですが、明治維新により、廃藩置県となり、武士を廃業し、栃木県にある、足尾銅山で、人足相手の食堂を経営しましたが、武家の商法、貸し売りをし踏み倒されつぶれました。

その子は私の祖父にあたりますが、古河電工日光青銅所の職人となり、
昭和に入って独立し、東京で鉄工所を開業しました。
私の父も手伝い、仕事は順調だったようですが、
戦争となりアメリカ軍の爆撃によって、その鉄工所はもとより、
東京は焼け野原、壊滅状態となりました。

(補足:文中「私」=弊社会長「佐藤務」は、昭和15年8月生まれ。第二次世界大戦時首都東京は、昭和19年11月14日以降106回の空襲を受け、特に昭和20年3月10日の空襲は最大規模のものだった。インターネットフリー百科事典『ウィキペディア』より)

私達女子供は、母方の実家がある、栃木県日光市に強制疎開となり、
身を寄せていました。私が5才の時でした。その頃の事は今でも鮮明に覚えています。

まだ東京にいた頃は、アメリカ軍の艦載機が落とす焼夷弾や機銃掃射を逃れ、
防空壕に身をかくしていました。防空壕の中は多摩川の伏流水で大人は腰まで水に浸かり、私はタライに乗って一寸法師になったつもりで、はしゃいでいました。

空襲警報解除のサイレンが鳴ると外に出て、
キラキラと光る真鍮(黄銅)でできた機関銃の薬きょうを沢山拾っておもちゃにして遊んでいました。

昭和20年の3月10日の東京大空襲では、8万4千人の市民が犠牲となり、
猛火に追われた人々が隅田川に逃れましたが、そこでも炎に巻かれて、焼け死んだ人が川を埋め尽くしたそうです。戦後死んだ人に何の賠償もありません。



その時私は、150キロも離れた日光から、
東京が燃えて夜空が真っ赤に染まっているのを見ながら、
母とともに父の身を案じていました。

父はそれまで東京の軍需工場で日夜休まずに働いていました。
その後しばらくして、柳行李ひとつ担いで私達のもとに帰ってきました。
行李の中には、ガラクタが詰まっていました。
大事なものと、いらないものを整理して、同じ柳行李に分けてあったのですが、
慌てていらないものを持って帰ったようです。
それでも中身は生活用品で、まな板や包丁が入っていたのを覚えています。

命あっての物種です。とにかく生きて帰ってきたのを喜び合いました。


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間もなく終戦となりましたが、それからの生活が大変でした。
食べるものもなければ、着るものも、家もありません。
いつまでも実家の世話になっている訳にもいきません。

町から20キロくらい離れた山の中の田舎の親類の畑の片隅に、
村の人に手伝ってもらい、掘っ立て小屋を建てました。
屋根は茅葺き、夜になると、小屋の中から星が見えました。
雨が降るとゴザを被って寝ました。電気もガスも水道もありません。

借りた土地は山の上にありました。石ころだらけの荒地で、自給自足の生活です。
畑を作りイモを植えましたが、やっと収穫しても、
売れるものは少しばかりの現金に変えました。残ったクズイモが食糧です。
「農林一号」と云う奴で、不味いイモでした。
そんな生活の中で私は栄養失調になりました。以来今でも、私はイモが嫌いです。

父は現金収入のため、土方仕事に出ました。それしか仕事がないのです。
体力の弱った父は、人力での作業ですから、川原の石を詰めたモッコを担ぎ、
フラフラ、ヨロヨロ、付いた仇名はフランスとヨーロッパ。
とうとう病気になってしまいました。

後でわかった病名は肺結核でした。医者にかかる費用もなかったのです。
健康保険制度もありません。高額な医者代はすべて自己負担です。

後年、貧乏人は麦を食え、等と云って顰蹙を買った政治家がいましたが、
それどころではありません。病気になったら、自然治癒か死ぬしかなかったのです。

風呂も近くの川の水をバケツで汲んで、ドラム缶の風呂に週一回、
垢だらけのお湯は翌朝、母の運んだ落葉や雑草の堆肥の上にかけました。
夜になると囲炉裏の周りに村の青年達を集め、母はソロバンを教えていました。
火が電気の代わりです。授業料は取りませんから、その内の何人かは、
野菜や米や豆等を少しずつ風呂敷に包んで持ってきてくれました。貴重なものでした。

たまに村の人がニヤニヤ笑って肉を持ってきてくれました。
それは赤犬の肉でした。囲炉裏で焼いた青大将も旨かったのを覚えています。
カエルも食べました。好きだの嫌いだの、我儘をしたり、
体裁ぶっては生きてゆけません。

私の栄養失調もこうして直りました。

小学校へ通うのも、ボロを着て、約4キロの砂利道を裸足で歩きました。
足のうらが痛いので、道端の草の上を選んで歩きました。
靴など買う金はありません。良くて草鞋でした。

これが敗戦後の疎開百姓の実態です。


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この戦争は世界規模の戦争で、第二次世界大戦と云います。
アメリカから見た戦争名は、太平洋戦争です。
この戦争の日本の国家としての正式な名称は、大東亜戦争です。
敵は主として、アメリカとイギリスです。連合国が相手でした。

今日は8月6日、広島に原爆が投下された日です。続いて9日にも長崎に投下され、
多くの民間人が一瞬にして命を奪われました(参照2)。
そもそも戦争というものは軍人同士が戦うものであって、
市街戦等で民間人が巻き込まれることはあっても、
民間人を狙って無差別に殺戮をすることは国際法違反です。
アメリカ軍はそれを行いました。この一事を見ても開戦時の日本軍のスローガン、
「打倒鬼畜米英」はさもありなんと思われます。

私はこの戦争は自衛のために戦った戦争だと思っています。
国連軍を相手に枢軸国として戦ったが敗戦となりました。
3年8ヶ月の戦いで、軍人、民間人合計で310万人の人が犠牲となりました。
尊い命です。東日本大震災の死者、行方不明者の150倍以上の人が亡くなりました。
その上、都市という都市も、ほとんど瓦礫と化しました。
今日の日本の豊かさを見れば想像もつきません。

話しはまだ続きます。

より良い生活を求め、それから更に5年田舎の生活から、
日光の町を転々として、小学校は3回変わりました。
叔父が洋品店を経営していたので、その手伝いを頼まれたのです。
父は慣れない営業として、洋服や反物を売り歩きましたが、なかなか売れません。
母は、反物を数人のお針子と共に、和服の仕立に精を出しました。
仕立が良いとの評判で、母を指名する客もいました。

少しは落ち着いた生活となりましたが、貧乏生活は相変わらずで、
日光の冬の寒さの中で板の間の間借り生活。とは云うものの、
今度は、電気と水道はあったし、何より雨漏りと隙間風がないので天国でした。

私は、貧乏家、貧乏家と近所の同じ年頃の子供達から馬鹿にされ、
よく喧嘩をしていました。

ある日進駐軍がジープで隊列を組んで、日光市内の観光にやってきました。
アメリカの兵隊達が大勢乗っていました。黒人もいました。
その日も喧嘩の最中でしたが、喧嘩相手はもちろん、敵も味方も全員が、
「サンキュー、サンキー」と口々に叫んでジープについて走りますと、
キャンディや風船ガム、チョコレートなどの珍しいお菓子を投げ与えます。
それを夢中で拾う子供達。私は呆然と立って見ていました。
乞食じゃあるまいし、人に投げ与えられて喜ぶ奴の方が
よほどの貧乏人ではないかと思い、これで俺の方が勝ったと、
それから喧嘩はやめました。

しかしその頃、
夏祭りにもらって飲んだ三ツ矢サイダーの旨かったことは忘れられません。
それから毎年夏祭りが待ち遠しくなりました。普段は水を飲むしかないのです。

私の兄弟は3人いたのですが、妹は病気で亡くなり、
弟はその4ヶ月後の夏に川で溺れて死にました。
親の嘆きは並大抵ではなく、死ぬことも考えたそうです。
しかし子供は私が一人残っていました。気を取り直し、又転居です。

心機一転、母の仕事は変わりませんが、
父の仕事は古河電工の下請けの小さな工場で、夜勤の仕事です。
夜の6時から朝の6時まで12時間勤務、徹夜の連続です。
月に2日位の休みがあるだけです。

私は小学6年生になっていました。
夜になると工場に弁当を持って行くのが私の日課でした。

さすがに父も職人です。大きな正面旋盤で、直径1メートル以上もある工作物を、
黒足袋に下駄を履き、片足を機械の上に置き工作物をニラミながら、
ゴリゴリと硬い鉄を削っています。
切粉が荒く丸まり煙を立て紫色をして転がり落ちています。
父は黙ってアゴをシャクり、弁当箱はそこへ置いてゆけと私に指示します。
後は無言です。滅多に口をきいてくれません。そんな父に私は尊敬の念を抱きました。

そのような時に弟、達也が生まれました。叔母が名付親でした。
最初は徹也と名付けるつもりが、私が猛反対して達也になったのです。
理由は父親が毎日仕事で徹夜をしているからと云って、
テツヤとは何事かというものでした。

そうして私達の暮らしは少しはマシになり、小さな一軒屋を借りる事ができたのです。しかしいよいよ私が小学校を卒業し、中学校へ上がるという時に、又引越しです。
やっと疎開先から東京へ。7年間の苦労でした。



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上野駅に着いて驚きました。
改札口を出ると、白装束の傷痍軍人が首から小箱を吊るして立っています。
見ると足の無い人、腕の無い人、目の見えない人が、
地下道の中から出口の外にまで善意の寄付を求めて立っているのです。
私は親にもらった小銭を、恐る恐るその小箱へ入れました。

その頃聞いた話しでは、早々に東京に戻った目先の利いた人は、
銀座の真ん中にでも、縄を張り掘立小屋を建てれば、
その土地はその人のものになったそうです。
何しろ元の地主は一族諸共死んでしまった人も多く、
所有者もわからなくなってしまった土地も結構あったそうです。



私達は大森へ戻って、またまた物置小屋を借りて改造した小屋でした。
東海道線の線路脇で、突っかい棒を立て、板の小窓を開けると、
すぐ3メートル程の所にレールがあって列車が通るとシブキが飛んできます。
何しろ線路は沢山あって朝早くから夜遅くまで引っ切り無しに通ります。
特に長い貨物列車が通ると地響きがして、話しもできません。

父は工場に勤めたのですが、間もなく発病しました。肺結核です。
寝込む程ではありませんが、働くことはできません。代わりに母が働きに出ました。
ニコヨンです。ニコヨンとは、一日の日給が240円だからです。
当時は失業保険も無く、政府が考えた失業対策事業です。タダではお金は貰えません。仕事は砂利道の補修や道路掃除、草取り、ドブさらいです。

その後に流行った歌は丸山明宏(現在・美輪明宏)の「ヨイトマケの歌」でした(昭和39年発表)。工事人夫のオバサン達が、三叉の中央に滑車をつけ、吊るした丸太のロープを引き建物の基礎を突き固めていました。昔はほとんど人力でした。

しかし、その収入だけでは食べていけません。
生活保護の制度はあったのですが、それは最後の手段でした。
当時の日本人は、生活保護を受けることを恥としていました。
ですから母は、実家に頼んで足りない分を仕送りしてもらったのです。

実家としてもいつまでも仕送りできませんから、
ある時これが最後だとの手紙が現金と共に送られてきました。
母は怒って手元にあった赤鉛筆で、もう頼まない!と返事を書きました。
それからが大変です。実家の母の姉から又手紙がきました。
赤い字で返事を書くとは何事か。赤い字で手紙を書く事はもう絶好のしるしだと、
スッタモンダがあったことは覚えています。

そんな風ですから、私も新聞配達で家計を助けるため、
中学を卒業するまで2年半の間、朝夕刊を休み無く配達しました。
今のように新聞の休刊日などはありませんから、
年中無休です。カゼも引けませんし、修学旅行にも行きませんでした。
そうして得た毎月の収入は、3,500円程になりました。貴重な収入でした。
私は幸いな事に、宮下顧問のように夜間中学に行く事なく、
昼間の学校を卒業することができました。

その頃も東京大田区と云えば、人口100万を数える東京23区の中でも最大の区でした。

自慢じゃないですが、その中で貧乏で生活が大変な家のワーストランキングに入り、
ある日一度だけ、一斗缶に入ったバターや、粉ミルク、
ビスケットや毛布等をもらいました。その上私が新聞配達をしているというので、
中古の自転車まで特別に貰ったのですが、子供用の自転車だったので使えませんでした。

幸い父の病気も快方に向かい、私も中学を卒業すると、町工場に就職し、
5年の間に技術を習得することに努めました。初任給は税込みの6,000円でした。
当時の大卒の初任給は、13,500円で歌の文句になりました。

そうして私が20才の時に創業に至る訳です。
社名は「佐藤製作所」。翌年2月に「トキワ工業有限会社」となり、
現在の「株式会社ベルクス」へと続いていきます。

少し話しが長くなりましたが、
これで「創業以前の社会と我が家の生活」というテーマでの話しは終わります。
まだまだ話したいエピソードは沢山あるのですが、かいつまんでの話しとなりました。プライベートな事が中心となりましたが、私の家族の生活を通して、
当時の社会の姿を垣間見ることが出来たのではないかと思います。
今の生活、今の社会からは想像もつかないと思います。

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ひとつ付け加えますと、今、円高で大変だと云っていますが、
戦前の1円は1ドルとほぼイコールだったと云います。
一概に比較はできませんが、当時の1円は今の1円とは違い、
価値が高く、サラリーマンの月給も100円といえば高給取りの部類に入りました。

しかし戦争に負けたことで、国家が破綻しました。
国がつぶれたのです。そうするとどうなるか。

私の家でも戦前は貯金も少しはありました。生命保険にも入っていました。
しかし貯金は全部は下ろせません。下ろせるのは当面の生活費だけです。
そして残りは価値の下がった新しいお札で交換です。「新円切替え」といいます。
そして1ドルは360円となったのです。生命保険や戦時国債等はすべてゼロ、紙屑です。

これが私達の会社が創業する、わずか15年程前のお話しです。

創業の年、昭和35年の15年前が昭和20年の敗戦の時です。

尊い多くの命の柱石があって、国民全部が大変な苦労をして、
今日の繁栄を築いたのですが、その苦労を忘れて、
甘えた暮らしをしているとどうなるか。又々国家が破綻しないとも限りません。
145年前の明治維新も徳川幕府がつぶれましたが、これも国家の破綻です。
そして昭和の敗戦です。たかだか、今から67年前のことです。

創立52周年にあたり、敢えて恥を忍んで「創業以前の社会と我家の生活」という、
個人のプライバシーに関わる話しをしたのは、それが当時の生々しい実態であり、
その体験を語ることで、温故知新、今の社会や今の生活について、
反省し考えてみることも大事だと思ったからです。
大方の社員の皆さんは初めて聞く話しだと思いますが、参考となれば幸いです。



さて話しは現実に戻りまして、今月は第51期の決算月です。
お陰様で今期の業績も目下順調です。決算の数字は固まり次第お知らせします。

ここ数年は、どうしても必要な設備は、主に中古機械で補ってきました。
今期は古くなった機械の更新のための設備も、何台か新しい設備に入れ替えることも出来ました。

この8月5日には、念願の立型5軸のマシニングセンターが技術部門に導入されました。この機械は3年前に導入を検討していたのですが、リーマンショックによって延期となっていたものです。

5軸マシニングセンターというのは、通常の3軸のマシニングセンターのX、Y、Z、3軸に加えて、回転と角度を加えた、同時5軸制御で工作物を加工します。
ミクロンを越えて、10,000分の1ミリ、"ナノの世界"の運転制御で加工します。
今までできなかった形状の物、たとえば船のスクリューのような物を一体で高精度に加工できます。



従来と云うか今でもそうですが、
船のスクリューは軸の部分に羽根を溶接して作ります。
それでも充分に推進力は得られて船は進むのですが、
一体で高精度に加工されたスクリューを使いますと、
性能も上がり、水中におけるスクリュー音が出ませんから、
潜水艦などに使用すると敵に察知されません。

軍事目的に使用されると困るので、共産圏にこの機械は輸出できません。
たとえばロシアや中国がいくらお金を出しても買えないのです。

そのような最新鋭の設備を使って、私達の会社は更に技術力を高めて、
お客様に喜ばれる良い製品を提供し、共に繁栄してゆかねばなりません。

機械は道具です。上手に使いこなさなければ、何の意味もありません。
私達の会社には償却期間もとっくに過ぎた古い機械も沢山あります。
そのような古い機械を上手に使うことも技術です。
TPM活動もそれを支える大事な活動です。

しかしそれもいつかは、更新の時が来ます。
それには利益を上げて、準備が出来れば良いのですが、
たとえ赤字でもそのための予算を確保して、備えておく必要があります。
早い話し、道具がなければ仕事にならないからです。

そのような意味で、今期、前向きな設備投資が出来たことを、
皆さんと共に喜びたいと思います。

さて皆さんにもう一つ喜んでもらいたいことがあるのですが、
時間の制約もありますので、後のお楽しみということで、
敢えて今ここでお話しはしません。ここでは、良いことも悪いことも共に分かち合うという、経営理念の実践をするということだけをお話しして、
大変長くなりましたが、創立記念の朝礼とします。

毎日暑い中、仕事は大変ですが、体に気をつけて頑張って下さい。
週末には納涼祭もあり、みどり会の役員の皆さんにお世話になりますが、
よろしくお願いします。そして、週末から夏休みです。
気を引き締めて安全第一でお願いします。


参照1:
・1945年8月6日広島市への原爆投下
これは実戦で使われた世界最初の核兵器である。
この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に、5年以内には20万人が死亡したとされる。
・8月9日長崎市への原爆投下
これは実戦で使われた二発目の核兵器である。
この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万人が死亡。
5年以内には約14万人が亡くなったとされる。建物は約36%が全焼または全半壊した。
(インターネットフリー百科事典『ウィキペディア』より)


2012年08月06日