平成30年8月6日(月曜日)午前8時
於:厚生棟大会議室

平成30年8月 創立記念朝礼

          (五十八周年)


株式会社ベルクス
  代表取締役会長 佐藤 務


 皆さんお早うございます。
今日は創立記念朝礼です。 今日の話は私達の会社の半世紀以上前になる創業時のエピソードから、 今日の私達の生活や社会の有り様に反省すべき所も多々あるように思います。
そんな事も含めて今日の話を聞いていただけたら意義があると思いますのでよろしくお願いします。

目次

  

昭和35年、創業当時の日本について

 それでは私達の会社が創業した58年前の昭和35年頃の当時のお話をしてみようと思います。
場所は東京 大田区の大森南3丁目という所です。正に映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界です。
東京タワーも完成したばかりの頃です。そこは羽田空港から直線距離で2、3km位しかありません。
昭和35年は西暦で丁度1960年にあたります。私が20歳の時でした。

 その時の総理大臣は安倍晋三首相の祖父である岸信介首相です。 岸総理大臣は新安全保障条約を、アメリカとの間に結ぶべく命懸けで取り組んでいました。

世の中は安保反対、安保反対一色となり、社会党を始めとする野党や、マスコミにあおられた全学連の学生達がヘルメットをかぶり棍棒を持って過激なデモを行なっていました。
羽田空港近くの道路は警官隊と学生達の衝突で学生達デモの投げた石が道路一面に散らかっていました。

国会議事堂はもちろん、岸首相の自宅までデモ隊が取りまき、安保反対、安保反対のシュプレヒコール※1(下記注釈参照)です。

作家 工藤美代子の書いた岸信介伝によると、その時5歳になった孫の晋三を膝に乗せ、塀の外から聞こえる、「アンポハンタイ」の声に合わせ、 「アンポハンタイ」という孫の声に、ニコニコと笑いながら、「アンポサンセイ」と云いなさいと教えたそうです。

その後、新安全保障条約が成立すると、岸首相は引退します。

 今日まがりなりにも平和な日本国があるのも、岸首相が改定した新安全保障条約によって、アメリカに日本を守ることを義務づけたこの条約によるものが大きく寄与しています。

そのアメリカが余り頼りなくなっている今日、積極的平和主義を掲げる、安倍晋三首相による憲法改正は不退転の決意で実現してほしいと思います。
58年前程の反対運動は起きないと私は思います。


高度経済成長の波に乗って…いつの時代でも「技術指向」

 次は身近な話ですが、創業当時は電話も10軒に1軒位しか普及していませんでした。
早速、電話局に申し込んだのですが、電話が引けるまで半年位かかりました。
その間、近所の電話のある家にお願いして、呼び出し電話にしてもらいました。
ですから、最初に作った私の名刺には、その家の電話番号の下に(呼)となっていました。
今や子供までケイタイ、スマホとなり信じられないでしょう。

そしてやっと電話が入りました。今でも覚えていますが、電話番号は741-3386でした。
私はその番号を見て、何だこの番号は“散々野郎”と読めるではないかと、不満を漏らしましたが、それを聞いた近所の心ある年輩の人に云われました。良い番号ではないか、それは“仕事を散々やろう”と読めば良いと。
成程、物は取りようだなと教えてもらいました。

 この年(昭和35年)に引退した岸首相の後を継いだ総理大臣は、池田勇人首相です。
国の安全保障はアメリカに任せ、国民の不満を経済政策一辺倒とも見える、所得倍増計画を秋に発表します。

その後あれほど反対、反対と大騒ぎした人々も静かになり、次の年にはいよいよ高度経済成長時代に拍車がかかります。

折しも東京オリンピックを4年後に控えていますので、各種の競技場の建設や公共事業も急ピッチで地下鉄、高速道路、新幹線工事、更には高層ビルと都内の主要道路は、至る所、工事中の鉄板が敷かれていました。

 私達の仕事もモータリゼーションの初まりと相まって、車関連のプレス仕事はいくらでもありました。しかしいつの時代でもコストは厳しく、大量生産によってコストダウンをせまられて豊作貧乏状態です。

創業当時の人員も5、6人から十数人となっても人海戦術では仕事をこなせません。
当初の仕事は車のオイルエレメントやエアクリーナーの仕事でした。

東京と云えども今のように道路は舗装されていません。砂利道も結構ありましたから地方は尚更です。
トラックが走れば砂ぼこりで先が見えません。

そんなことでエアクリーナー等、作れば売れた時代なのです。

 私達の会社は幸いな事に当初から金型も自前で作っていましたので、生産性を上げる為の技術革新で、多数個取りや、工程合理化によって工程短縮、例えば、ブランク、絞り、中抜きといった3工程をワンパンチの金型に作り変えて、生産性を飛躍的に向上させるとかができたのです。

但し自前です。金型代は貰えません。

なぜなら、当時のプレス屋は親会社からの支給された金型で仕事をしていましたし、仮に新規の部品で金型を作るとすれば、金型屋へ頼むしかなかったのです。

そうすると、ありきたりの昔ながらの工法でしか金型は出来てきません。厳しい競争の中で倒産する所も結構ありました。

そうした中で私達の会社の技術指向という大きな柱が根づいていったのです。
「ものづくり」をしていく中で、今後もこの方針は変わることはありません。


「働き方改革法」と58年前の働き方

 今、政府は働き方改革法等の法案を検討し、この度、国会で成立させました。

これは過労死等、社会問題化している中、残業を制限して生産性を上げ、残業しても80時間以内だとか、裁量労働制とか考えていますが、これも野党は反対していました。

私にはあまり興味がありません。何故なら私達の会社には、そのような問題はないと思うからです。
58年前のことを考えますと、人は何でこんなに軟弱になったのかと思うのです。
乱暴な云い方かも知れませんが、100時間位残業して自殺すると、過労死と認定されます。

他に原因はなかったのか、心の病はなかったのか、そんなに残業がつらいことなら、私だったら会社を辞めます。

当時の1ヶ月の労働時間は400時間近く働いていました。 今は週休2日制ですから、1日8時間×20日働いて160時間ですから、今の感覚で云えば軽く残業200時間以上働いていた事になります。


その頃は一般的に休日は第1と第3日曜日以外にありません。それ以外は平日という感覚です。

どこの職場でも夕方6時になると夜食が出ます。うどんやそばがメインですが、それを食べると夜の8時か9時まで働きます。
大体それが定時という感じですが、たまに丼物が出てくると、今夜仕事が終わるのは9時か10時頃かなという所です。

世の中がすべてそんな風でしたから、誰も文句を云う人はいません。
しかし、強制ではないので早く帰りたい人は自由です。
早く帰ったからと云って嫌味を云われたり、イジメられたりする事もあまり聞かなかったと思います。

何よりそんなに働いた人は残業代の方が基本給を上まわったのですから、池田首相の所得倍増はあっという間に達成です。

もちろん残業で所得倍増を目標にしていた訳ではありません。 基本給が2倍になる事が目標である事は云うまでもありません。

 経済が好調の時は凄い事ですね。 年々10%前後の経済成長となりました。
大多数の勤勉な日本人によって高度経済成長が支えられ発展していったのです。 この頃の好景気を神武景気※2(下記注釈参照)や岩戸景気※3(下記注釈参照)と云います。

それから4年後の(昭和39年)東京オリンピックが終わり、更に6年後の(昭和45年)大阪万博が開催される頃にはドイツやイギリスを抜いて世界第2位の経済大国となってしまったのです。
その間たった十数年、猛烈に働いたのです。

昭和35年当時の大学初任給は1万3500円、今はその15倍で20万を超えています。
モリソバ、カケソバは25円から30円、タバコも30円から40円でしたから、現在はインフレによって約10倍となっています。

給料が15倍で物価が10倍ですから、その差額分だけ実質的に豊かになったと云えるでしょう。

そんなに働いても過労で死んだ等という話は聞いた事がありません。 もし、あったとしても今のような社会問題にはならなかったのかも知れません。むしろ残業時間の多いことを自慢にしている人は沢山いました。


マイカーを夢見て必死に働いた時代

 今のように就職する前から車を買うなんて夢のまた夢、マイカーなど持っている人は滅多にいません。
私達の会社も最初の1年位は個人創業でしたが、お客様への納品は50ccのバイクにリヤカーを付けて約10㎞先の平和島まで行くんです。積みきれない程の荷がある時は運送屋のオート三輪をチャーターします。運賃は1回400円です。

やっと社有車の軽トラックを買ったのは、1年半後のトキワ工業㈲となってからでした。

マイカーローンなんていうものはありませんし、車を買うには現金でしたから金持ちしか買えないのです。

大多数の貧乏人は車に限らず欲しいものがあったら皆喜んで残業するんです。
そういう夢や希望があったから、ストレスなんか無縁です。
働いて食べて寝るだけで満足なんです。米の飯が食えたら上等なんです。


池田首相の有名な言葉に、貧乏人は麦を食えと言ったのもこの頃の話です。

食糧自給率39%(カロリーベース)の現在家庭から出る、まだ食べられるのに捨てられる食品は年間280万トン、その他スーパーやコンビニから捨てられる食品を入れたら膨大な量になります。 なんと罰当たりなことかと思います。


豊かな時代だからこそ忘れてはいけないこと「仕合わせ」

 私達の今の生活は当時と比べたら夢のような暮らしなんです。

有り難いと思わなければなりませんが、それでも人間は満足しないんですね。
良い意味ではあくなき向上心といえなくもないんですが、経済は豊かになっても、心は貧しいなんて不幸ですね。

幸せはお金では買えないんです。お金も大事なんですが、お金で買えないものも沢山あるでしょう。
愛も、思いやりも、親切も、感謝も、真心もお金では買えません。

そこで「経営方針」※5(下記注釈参照)の中の幸せという言葉を辞書で引いてみてください。
仕合わせ」と出てきます。

これは共に仕え合う(つかえあう)、もともとは「為合う(しあう)」からきているそうです。
そして幸せとも書くと出ています。それは第一義的な解釈ではなくて、先程のお金では買えないものを与え合う事で人は幸福になるんだと私には読めます。

自分本位の生き方が優先されるようでは、幸せどころか不幸になってしまいます。

個人創業した昭和35年8月から1年半後の昭和37年2月の会社設立時に掲げたこの「経営方針」は今も色褪せることなく、仕事をしていく上での指針として立派に機能しています。

 創立記念朝礼ということで、今から58年前となります創業当時の話をいくつか拾ってお話をさせてもらいましたが、今や昔話となってしまいました。 若い人には信じられないかも知れませんが、本当の話です。
参考になったでしょうか。


会社の近況

 さて、今年は明治維新※4(下記注釈参照)から150年という節目の年でもあります。
そして来年は平成という年号も変わります。

平成元年に株式会社ベルクスから技術部が分社設立したオーク株式会社も今年で30年になりました。
第30期の決算は先月7月に確定しました。7月の朝礼で概略の説明をしましたが、順調に推移しています。

これからも増々その技術に磨きをかけて社業の発展はもとより、外販金型を通して同業他社の技術革新にも貢献して、期待されるオーク株式会社となる様、精進して参りたいと思います。

株式会社ベルクスの30周年記念の時は、お客様もお呼びして盛大なお祝いをしましたが今はそういう時代でもありません。
内々で実質的なお祝いとしますのでよろしくお願いします。

 ベルクスも今月が決算月ですが、営業の目標売上は前期実績に対してプラス5%としていますが、目標を軽くクリアする程のプラス成長が見込まれます。これで2期連続のプラス成長となります。

計画的な設備投資もタイミング良く導入され、稼働しています。レイアウト変更やピット工事等で生産を止めることなく、一部残業で対応してきましたが、皆さんの協力で落ち着いてきました。
ありがとうございました。
充実した生産設備で、今後は更に生産性を高め着実に前進して行きたいと思いますので、よろしくお願い致します。


これからも大切なお客様初め関係する皆様方の期待と信頼に応える様、皆さんと共に努力して参りたいと思います。

 新しい時代の将来が予感されます。

今日ある事に感謝しつつ臨機応変と創業の精神を皆で共有して行こうではありませんか。

暑い中ですが、週末には納涼祭、そして夏休みになります。体調に気をつけて、安全作業を徹底してください。

私からの話は以上です。ありがとうございました。


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【注釈】

※1 シュプレヒコール 集会やデモなどで、参加者がいっせいにスローガンを唱えること。(デジタル大辞泉より抜粋 2018.8.24)

※2 神武景気 (じんむけいき)とは、日本の高度経済成長のはじまりの1954年(昭和29年)12月から1957年(昭和32年)6月までに発生した好景気の通称のことである。1955年(昭和30年)に数量景気(すうりょうけいき)とも呼ばれた。 (インターネットの百科事典ウィキペディアより抜粋 2018.8.24)

※3 岩戸景気(いわとけいき)とは、日本の経済史上で1958年(昭和33年)7月~1961年(昭和36年)12月まで42か月間続いた高度経済成長時代の好景気の通称である。(インターネットの百科事典ウィキペディアより抜粋 2018.8.24)

※4 明治維新(めいじいしん、英: Meiji Restoration, Meiji Revolution[1])とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。(インターネットの百科事典ウィキペディアより抜粋 2018.8.24)

※5 経営方針「責任ある仕事をし  協調の精神をもって  皆の幸せをつかむまで  限りなき前進をしよう」

2018年08月06日